「タリエ・ヴィーゲン」原文、および英語訳は以下でご覧いただくことができます:
>>Terje Vigen ノルウェー語(リンク)
>>Terje Vigen 英訳(リンク)
『タリエ・ヴィーゲン』 翻訳:岡本健志
1.
沖合の、草木も育たぬ島に
風変わりな白髪の男がいた。
男は 海でも陸でも
決して人を傷つけたりはしなかった。
だが 時折 特に嵐の日
怒りと苦悩が男の目に現れた。
人々は 正気をなくしたと考えた。
その男 タリエ・ヴィーゲンが近づくと
怯えずにはいられなかった。
2.
以前に 一度
桟橋で魚を持つ男の姿を見た。
白髪だったが
溌剌とし 若者のように
笑い、歌っていた。
娘たちを冷やかしては
町の若者と冗談を交わした。
南西に向かうと 舟に飛び乗り
帆を張り、夕日を浴びながら
その年老いた鷲は 家路についた。
3.
さて タリエについて聞いたところを
一部始終 聞かせよう。
時に 無味乾燥と感じられるだろうが
ありのままの事実に過ぎない。
直に聞いた話ではないが
当時のタリエを知る者から
臨終に立ち合い、
看取った親しい者から
伝え聞いた話である。
七○歳の高齢で タリエがその生涯を終えた時。
4.
若い頃 男は荒くれ者だった。
早くに親元を離れ 独立し
最年少の水夫となり
苦労しながら 身を立てる術を学んだ。
そのうち 望郷の念を抑えきれず
アムステルダムから
プラム船長率いるユニオン号で帰郷した。
だが 若くして故郷を離れた者を
誰一人知る者はいなかった。
5.
この時には 逞しく立派な男になっていた
いっぱしの自信も身につけて。
父母が亡くなり
親類縁者も この世を去った。
一日、ニ日ふさぎ込んだが
男は 悲しみをぬぐい去った。
陸では安らぎを得られない
波に揺られて 暮らす方が
ましなことだと思われた。
6.
翌年 タリエは結婚した。
性急な決断だったのかもしれぬ。
突然 陸に縛られて
人々は 後悔すると考えた。
その冬を 男は屋根の下で
楽しく過ごした。
小さなカーテンと花に彩られた
窓ガラスが晴天の日のように輝く
小さな赤い家で。
7.
春一番が氷を解かす頃
タリエは舟で海に出た。
南へ急ぐ雁を見る
秋には
胸ふさがれる思いがした。
若く、逞しいとわかっていても
陽のそそぐ海岸を離れた。
生命と喜びの季節を過ごした後に
暗い冬が待っている。
8.
錨を下ろすと 仲間は
酒をのみにと繰り出した。
小さな我が家の軒先に佇み
羨むような眼差しで 男は仲間を見送った。
白いカーテンの陰から覗きこむと
二人の姿が目に映った。
妻は腰掛け、糸を紡ぎ
揺りかごでは 真っ赤な頬の赤ん坊が
笑い声を上げている。
9.
この時 心を入れ替えた
人々は タリエが真心を持ったと噂した
身を粉にするほど 働いて
一日の終りに 揺りかごの我が子をずっとあやした
日曜の夕暮れ 近くの農家から
にぎやかなダンスの曲が聞こえると
男は 幸せな気持ちを歌にした
可愛いアンナを腕に抱き
小さな手に茶色い髪を引っ張られながら。
10.
戦争の年がやってきた
一八○九年のことだった。
貧苦に喘いだ 人々の生活は
今もなお 語り継がれている。
英国の艦隊が 港を封鎖
国内は どこもかしこも 困窮した。
貧しき者は飢えに苦しみ 富める者さえ財を無くした。
逞しい二本の腕でさえ 巷に広がる死と病を
どうすることもあたわずに。
11.
一日、ニ日ふさぎ込む
だが タリエは 悲しみをぬぐい払った。
旧来の、信じるに足る大海原
男は想いを馳せていた。
西の地で 男の武勇は
今でも 語り草となっている。
「荒れ狂う嵐が 少し収まると
その男 タリエ・ヴィーゲンは 妻子を救いに
小舟で大海原に漕ぎ出した」 と
12.
手に入るのは 小さな舟
スカーゲラク海峡を渡るために タリエはそれを選んだ。
帆とマストを 我が家に残す
それが良いと考えた。
横波を受けても どうにか耐える
タリエは そう考えた。
ユトランド半島の暗礁を抜けるのは難しい。
だが 甲板から鷲のように目を光らせる
英国艦隊の見張りは 更に恐ろしいものだった。
13.
神の慈悲と加護を信じて
タリエは懸命に櫂を漕いだ。
無事 デンマークに到着し
貴重な荷を受け取った。
大した荷でないことは 誰の目にも明らかだった
たった三樽の大麦のみ。
だが 窮する地から来た男には
妻子のために
漸く手にした日々の糧。
14.
三日三晩 小舟を漕ぐ
逞しく、勇敢な男は
四日目の朝 一条の光が差す頃に
遠くに おぼろげな地平を認めた。
流れる雲などではなく
確かに 山の稜線だった。
彼方には ひと際高い
イーメネスサデル山が 蒼く険しく聳える。
その時、男は理解した。
15.
我が家は近い 過酷な時を送ったが
あと一息だ
希望と喜びに 胸が高鳴り
神への感謝を表そうとした
将にその時 言葉が凍った。
目を疑ったが まぎれもない現実
朝靄の中 ヘースネスの入江で
縮帆し 低速で航行する
英国の軍艦が 目に飛び込んだ。
16.
男の小舟が発見された
鳴り響く号令で 故郷への最短航路が閉ざされた。
未明の風が 小舟を揺らし
タリエは 西に急いで向かった。
軍艦から 小型船が降ろされた。
水兵のかけ声が耳に届く
男は しっかりと踏ん張って
海水が逆巻くほど 懸命に櫂を漕いだ
血が指先に滲むほど。
17.
イェスリングは暗礁地域
ホンボルグの入江の ちょうど東に存在する。
海風で 三角波が立っているが
水深は 僅かにニ尺のみ。
穏やかな日でも 海面は
舞い散る飛沫がきらめいた。
激しい波が打ち寄せる日でも
内海は常に穏やかだった。
18.
タリエ・ヴィーゲンの小舟は 飛沫の中を
矢の如く 岸へ向かって突き進んだ。
だが 背後には ぴったりと
十五名の水兵を乗せた船が追走した。
神に救いを求める
悲痛な叫びをあげたのは 将にこの時だった
「入江の奥の粗末な家の軒先で
子どもと共に妻が
食糧を待っています!」
19.
だが 十五名の怒号により、タリエの声がかき消された
リュンゲルの悲劇が繰り返された。
運命は
ノルウェーを襲う英国兵に味方した。
タリエの小舟が暗礁に
小型の船も座礁した。
舳先から英国の将校が「停船!」と叫ぶ
櫂を高く振りかざし 小舟目がけて
投げつけた。
20.
打ち砕かれた舟底は 肋材が外れ
海水が急激に流れ込む。
貴重な積荷は 水深ニ尺の海底に。
それでも タリエは沈まずに
水兵をかたっぱしからなぎ倒し
舟縁の向こう側へ飛び込んだ。
潜っては 泳ぎ また潜り
再び小型船が動き出した。
男が姿を現す海面で 銃声とサーベルの音が響く。
21.
引きあげられた男は 軍艦まで連行された
軍艦は 勝利を喜び 祝砲を放った。
船尾には 自信に満ちた
十八歳の司令官が 得意満面に立っていた
初めての手柄は タリエの小舟
若い虚栄心は 情けを知らず
タリエは もはや逃がれる術がないことを理解した
強い男は 甲板に跪き
一心不乱に懇願し、涙を流すばかりだった。
22.
涙ながらの訴えも 水兵は嘲笑するばかり
タリエの祈りさえも馬鹿にした。
東風にのり 英国の勝利者は
勝ち誇ったように 船を進ます
この時 タリエは寡黙になった。
望みを失い 心の奥に悲しみを封じ込めた。
荒れ狂う嵐のような激情が
突然 跡形もなく消え去ったことに
気づく者はいなかった。
23.
男は 長い歳月を牢で過ごした
まる5年を過ごしたとも語られる。
男はやつれ 白髪が混じるようになった
故郷の我が家に 想いを馳せつつ。
癒されることのない心痛を 始終口にはしなかった
あたかも男の財産かのように。
平和と共に 一八一四年になった
スウェーデンの軍艦で
タリエら ノルウェー人捕虜が帰郷した。
24.
男は、故郷の桟橋に降り立った
国王令で 水先案内人となり。
だが 白髪混じりのこの男を
かつては水夫としてならした者だと
気づく者はいなかった。
男の家には 見知らぬ者が住んでいた。
妻と娘の行方を その男が教えてくれた。
「夫が二人を残して出て行った。
面倒をみる者がなかったため生活保護を受けていたが
やがては共同墓地に埋葬された」 と。
25.
歳月が流れても
沖合の島で水先案内人として働いていた。
男は 海でも陸でも
決して人を傷つけることがなかった。
だが 時折 特に嵐の日には
怒りと苦悩が男の目に浮んだ。
人々は 男が正気を逸していると思い
その男 タリエ・ヴィーゲンが近づくと
怯えずにはいられなかった。
26.
海風が激しく吹き荒れる ある月夜のこと
水先案内人の間で 騒ぎとなった。
英国のヨットが 岸に打ち寄せられている
主帆が破れ 三角帆も裂けている
マストには赤旗を掲げ
緊急信号を発している。
斜め前方からの風を受け ヨットは勢いを増し
何度も上回しとなっていた。
水先案内人が乗りこんだ。
27.
白髪交じりの男は 堂々とし
舵を取る手さばきは見事としか言いようがない
男の操縦で ヨットが再び陸から離れ
水先案内船が導いた。
子どもを抱いた貴婦人と共に 紳士が
船尾まで来て 帽子を取って こう言った
「激しい波風から我々を守ってくれるのなら
貧しいあなたを今すぐにでも裕福にしましょう」 と。
だが 突然 タリエは舵輪の手を放した。
28.
男の頬から血の気が引き 含み笑いを浮かべた。
ようやく願いがかなったという笑みだった。
豪華なヨットはそのまま進み
勢いよく暗礁に乗り上げた。
「舵が利かない 小舟に乗り移りなさい!
御主人! 奥方!さあ 私と共に!
さもないと 海の藻屑になりますよ
内海には避難航路があります
さあ 私について来なさい。」
29.
燐光(鬼火)が揺れていた
貴重な荷を乗せ 陸に向った小舟のあたりで。
船尾には 力強く、堂々とした水先案内人
鋭く険しい目つきで立っていた。
風下には イェスリングの暗礁を
風上には へースネスの入江を見据えていた。
その時 おもむろに 舵と前檣綱(ぜんしょうづな)から手を放し
櫂を高く振り上げては 舟底目がけて
投げつけた。
30.
荒れ狂う海に 白い飛沫が舞った
船では あっという間に混乱に。
だが 母親はしっかりと我が子を抱き締めていた
顔面蒼白になりながら
「我が子 アンナよ」と 恐怖に震え 悲鳴をあげた。
白髪の男は 大の眼を見開いた。
帆脚索(ほあしづな)を引き 舵を握る
小舟は再び安定し まるで鳥のように
高波と飛沫の間を進んでいった。
31.
小舟は座礁し沈没した
だが 内海は穏やかだった
荒波が弧を描く入江の内部は。
海水は膝に達していた
「暗礁の上なのか 否、足元が頼りない
これは岩礁ではない!」と 紳士が叫ぶ
水先案内人は微笑んだ
「心配するには及びません。
かつてここで沈んだ小舟に積まれた三つの大麦樽が
私たちを救っているのです。」
32.
忘れていた記憶が
稲妻のように紳士の脳裏に浮かんだ。
甲板に跪き 涙を流して懇願していた
水夫の姿がよみがえった。
「おまえは 俺の運命を支配していた
なのに おまえは名声を選んだ 復讐の時がやってきた」
と タリエ・ヴィーゲンが声を荒げた。
この時 誇り高き英国紳士が
水先案内人の前で跪いた。
33.
タリエは櫂に寄りかかるようにして立っていた
若き日のように、勇ましく
目には激しい炎が揺らぎ
風は 男の髪をかきあげた。
「おまえは立派なヨットで快適に航行し
俺は粗末な小舟を漕いだ
妻や子のために 命がけ
おまえは 愛しい者の食糧を奪ったばかりか
俺の悲痛な叫びさえ 笑いものに。
34.
おまえの裕福な夫人は 春のように明るく
その手は絹のように柔らかい
俺の妻の手は 荒れてごつごつしていた
それでも 私にはたった一人の妻だった。
おまえの娘は ブロンドの髪と碧眼で
神の祝福を十分に受けている
俺の娘は まことには比べものにならぬほど
やせ細っては 血色も悪く
多くの貧者の子どもと同じく。
35.
いいか それが財産だった
この世で持てるすべてだった
おまえには 価値のないものかもしれないが
俺には 王冠にも値する
今や 復讐の時がやって来た。
おまえが救いを求める順番だ
積年の恨みを!
落胆し 白髪が混ざり
我が幸せを葬り去った積年の恨みを!」
36.
母親から子どもを奪い取っては 持ち上げて
左の手では夫人を掴んだ。
「後ろに下がれ! 一歩でも近づくと
子どもと妻の命はないと思え!」
英国紳士は とっさに構えたが
その腕には力なく
息が荒く 目もうつろ
明け方の光に照らし出された髪は
一夜にして 白くなっていた。
37.
だが タリエの顔が穏やかになった
解き放たれて 落ち着きが戻った
子どもを丁寧に下に降ろし
その手に優しく口づけをした。
独房から解放されたかの如く 深く息を吸い込んだ
男は 温厚な声でこう言った
「漸く タリエ・ヴィーゲンは蘇った。
この時まで この身体には荒々しい血がたぎっていた
どうしても復讐を果たさねばならなかった!
38.
牢で過ごした長い年月
そのため すっかり心を病んでいた
それからというもの 荒野の雑草の如く
深い奈落の底だけを見て 生きてきた
だが それも終わり
これで お互いさま
あなたも故意に罪を犯したわけではない
私が全財産を差出し あなたが全て奪っただけのこと
不公平だと思うのなら 神に問うがよいでしょう
神が私をこのように創り給うたのですから」
39.
朝日が差し込む頃には 全員無事に救出された
ヨットは港の奥に停泊していた。
その夜の出来事について 彼らは何一つ語らなかった
だが タリエの名前はすぐに知れ渡った。
悪夢の暗雲は
一晩の嵐に 一掃された。
その日以来 タリエは再び誠実さを取り戻した
悲嘆に暮れ 肩を落とし
甲板に跪き涙を流した あの日と同様に。
40.
紳士と貴婦人が
大勢の者を従えて 訪れた
つましい住まいの軒先で
男と握手し、別れの挨拶と神の加護を伝えた。
荒れ狂う嵐の中での救助と
岩礁や海での救助を 感謝した
子どもの髪を撫でて タリエはこう答えた
「否 その時 救ってくれたのは
この子です」 と。
41.
ヘースネスの入江へ向かうヨット
ノルウェー旗が掲げられ
少し西の 泡立つ波が打ち寄せる辺りで
礼砲が放たれた。
高台でそれを見ていた
タリエの目から その時 涙がこぼれ落ちた。
「多くを失い 多くを得ました。
ある意味 これが神の祝福なのでしょう。
神様 心から感謝いたします」
42.
以前に 一度
桟橋で魚を持つ男の姿を見た。
白髪だったが
溌剌とし 若者のように
笑い、歌っていた。
娘たちを冷やかしては
町の若者と冗談を交わした。
南西に向かうと 舟に飛び乗り
帆を張り、夕日を浴びながら
その年老いた鷲は 家路についた。
43.
フィエーレ教会の墓地の 雨ざらしの場所の
小さな墓が目に留まった。
手入れもまったくなされておらず
みすぼらしく荒れていた。
黒ずんだ墓標には
白字で タリエ・ヴィーゲンと
命日と共に 記されている。
日差しや風雨に晒された
たくましい雑草に
野の花が彩りを添えていた。
(※無断転載禁止)