アーベル賞

最終更新日: 04.09.2013 // アーベル賞は、数学における傑出した業績に対して贈られる国際的な賞で、根本的な問題の解決、重要な新技術や原理の開発、新たな研究分野の開拓など、数学分野への貴重な貢献をたたえるものです。賞金は600万ノルウェークローネです。

アーベル賞を最初に創設しようと考えたのは、ノルウェーの数学者ソーフス・リー(Sophus Lie 1842~1899年)でした。しかし彼の死後、この計画は立ち消えになってしまいます。アーベルの生誕100年であった1902年、国王オスカル2世は、アーベルをたたえる賞の創設に興味を示しました。ところが、1905年にノルウェーとスウェーデンの連合が解消されたため、この計画もやはり中止されてしまいました。

アーベルの名前を冠した主要な数学の国際賞を創設する構想が、再度ようやく持ち上がったのは2000年8月になってからでした。アーベルの伝記作家Arild Stubhaugと、当時Telenor社の最高経営責任者(CEO)を務めていたTormod Hermansenが顔を合わせた席でのことです。そして、オスロ大学の数学者が作成した提案書が2002年に国会で承認され、翌年、最初の賞が授与されました。受賞者は、ノルウェー科学文学アカデミーが国際委員会の推薦に基づいて選定します。アーベル賞は、毎年5月にオスロ大学の講堂で開催される授賞式で国王によって授与されます。受賞者は翌日オスロ大学で「アーベル講演」を行ない、その後ノルウェーの他の学園都市の一つでも講演を行ないます。

アーベル基金
アーベル基金の主な目的は、社会における数学の地位を向上し、子どもや若者の数学への関心を高めることを目指して、1人または複数の数学者に国際賞の賞金600万クローネを授与するための財政基盤を確保することです。

アーベル基金は、ノルウェーの2つの主要な数学コンテストとして知られる、ニールス・ヘンリック・アーベル数学コンテストとアーベル・カップ(KappAbel)も支援しています。また、数学研究を促進し数学研究におけるノルウェーの国際的地位を向上させることを目的として、ノルウェー数学ソサエティーの主催で年に1~2回、アーベル・シンポジウムが行なわれています。アーベル基金は、発展途上国の若手数学者に贈られるラマヌジャン賞の支援も行なっています。

ニールス・ヘンリック・アーベル Niels Henrik Abel(1802~1829年)
アーベル賞は、ノルウェーの数学者ニールス・ヘンリック・アーベルにちなんだ賞です。アーベルは早いうちから非凡な数学の才能を発揮し、1821年にクリスチャニア大学(現オスロ大学)に入学しました。1825年の秋、数学の中心地パリへ向かう途中、アーベルはベルリンを訪れました。そこでドイツの技術者アウグスト・レオポルド・クレレと出会います。アーベルとの出会いに触発されたクレレは、数学雑誌を刊行します。この雑誌は『クレレの雑誌』として知られようになり、パリの主要雑誌と競合できる雑誌となりました。

1826年7月にパリに到着したアーベルは、のちに有名になる「パリの論文」の執筆にすぐさま取り掛かります。そして、その論文を科学アカデミーに提出しましたが、科学アカデミーからは何の返答もありませんでした。アーベルは、論文が永遠に失われてしまったのだと確信します。気分が優れず、医者に診てもらったアーベルに、医者は結核の診断を下します。当時、結核を患うことは死の宣告を意味しました。クリスチャニアに戻ったアーベルは、その後1年半しか生きながらえませんでしたが、その間、驚異的な数の論文を次々と執筆し、ベルリンのクレレのもとに送りました。

1829年4月6日、ニールス・ヘンリック・アーベルは26年の生涯を終えました。そのわずか2日後、アーベルの論文が見つかったことを知らせる手紙がパリから届きます。また同じ日、アーベルにベルリンでの終身職が与えられる旨を喜々として伝える、ベルリンのクレレからの手紙も届きました。アーベルの「パリの論文」は1841年に科学アカデミーによって発表され、他のどの数学論文をも上回るほどの高い評価を得ています。


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