アーケシュフース城. 
写真: Innovation Norway.アーケシュフース城. 写真: Innovation Norway

リンゲリーケ博物館 その1

最終更新日: 28.01.2013 // リンゲリーケ博物館はオスロからバスで約一時間のヘーネフォス (Hønefoss) 近郊のノーデルホーヴ (Norderhov) という、のどかな田園地帯にある旧牧師館です。小規模ながら、歴史的にも文学的にも非常に興味深い資料が展示されている博物館です。



【リンゲリーケ博物館  その1 】岡本健志(テキスト・写真)

ノルウェーには各地に小さな博物館が点在しています。ここで紹介するリンゲリーケ博物館(Ringerikes Museum)も比較的小さな規模の博物館です。2012年11月にノルウェー民話と児童文学に関する講義を依頼されたこともあり、久しぶりにこのオスロ郊外にあるリンゲリーケ博物館を訪ねることにしました。

リンゲリーケ博物館はオスロからバスで約一時間のヘーネフォス (Hønefoss) 近郊のノーデルホーヴ (Norderhov) という、のどかな田園地帯にある旧牧師館です。小規模ながら、歴史的にも文学的にも非常に興味深い資料が展示されている博物館です。


アンナ・コルビョルンスダッテル (Anna Colbjørnsdatter) の機転


ノルウェーがデンマークの属国だった頃、繁栄を極めていた隣国スウェーデンのカールXII 世(Karl XII)は、反スウェーデン同盟 (北方同盟) を結成した諸国と、北欧、中欧そして東欧での覇権を争うために北方大戦争 (1700-1721) を仕掛けました。

1690年代、バルト沿岸諸国まで領土を拡大したスウェーデンは、イギリス、オランダの後ろ盾を得ると、ホルシュタイン・ゴットープ公爵と結び、ロシアのピョートル大帝やザクセン・ポーランドのアウグスト強王と同盟を結んだデンマーク・ノルウェーのフレゼリク四世 (Frederik IV) との対立を激化させていました。

1716年、スウェーデンとデンマークの間のエアスン海峡が凍結すると、カールX世グスタヴが行ったように、凍結したエアスン海峡を渡り、コペンハーゲンに進軍する計画を立て、スウェーデン南部のカールスクローナに兵を集結させました。しかしながら、進軍直前に同地を襲った嵐によって氷が割れ、コペンハーゲンへの徒歩での進軍が不可能になったため、カールXII 世は目的地をノルウェーに変更しました。

ノルウェー軍はこのスウェーデン軍の動きをいち早く察知し、アーケシュフース (Akershus) 要塞のリーツォヴ (Lytzow) 最高司令官の指揮の下、ヴィンゲル (Vinger)、ヘーラン (Høland) およびフレデリクスタ (Frederikstad) とフレデリクスハル (Frederikshald/現ハルデン) との間に軍隊を派遣し、クリスチャニア (Christiania/現在のオスロ) に予備軍を配置しました。カールXII世は、デンマーク・ノルウェーに単独講和を強いさせるべく、1716年2月、8000人の兵を率いてスウェーデンのヴェルムラント (Värmland) からクリスチャニアを目指しました。途中、メルネル (Mörner) 率いる南からの別のスウェーデン軍と合流する計画も立てられていました。当時の積雪量は膝が埋まる程度だったと言われており、大砲を運んでの進軍が過酷なものだったことは容易に想像がつきます。スウェーデン軍はヘーランでの戦闘で勝利を収めましたが、クリスチャニアへの進軍はこのような状況のため、殊の外時間がかかることになりました。この間、ノルウェー軍はクリスチャニアへの道路を材木などで封鎖し、スウェーデン軍の侵入に備えることができました。このようなバリケード設置には地元のノルウェー人農民も自主的に参加したとされます。更に、クリスチャニアの南からの侵入を警戒したノルウェー軍は、鉱山都市コングスベルグ (Kongsberg) を防衛するために、ドランメン (Drammen) とクリスチャニアの間にあるリーエル (Lier) のイェッレバッケン (Gjellebakken) に予備軍を配置しました。

カールXII世は、バリケードがイェッレローセン (Gjelleråsen) 地区をはじめとする地域で築かれたクリスチャニアへ続く東からの街道沿いのルートを諦めると、ヘーレンで別のスウェーデン隊と合流したのち、凍結していたオスロフィヨルド南部からクリスチャニアに向かい、3月21日、シューエイア (Sjuøya) 島と本土の間からアーケシュフース要塞を狙いました。スウェーデン軍は要塞からの砲弾をかいくぐり、現在のオスロ中央駅とグレンラン (Grønland) 地区の中間点に陣を構えました。この地を選んだのは、アーケシュフース要塞に圧力をかけることと同時に、要塞からの砲弾が届かない場所だったことが理由でした。

 

いつの時にも「アーケシュフース城の攻略はノルウェーの攻略を意味する」と考えられていました。包囲には成功したものの、要塞を陥落させられなかったことから、カールXII世はクリスチャニアの北北西にあるリンゲリーケ方面に500人から1000人規模の軍隊を派遣し、そこからリーエルのノルウェー軍の背後を突く作戦を実施することにしました。レーヴェン (Løwen) が率いるスウェーデン軍はイェヴナーケル (Jevnaker) で略奪を行った後、3月28日にノーデルホーヴに侵入しました。

この時、リューマチで病床に就いていた牧師ヨーナス・ラスムス (Jonas Rasmus) に代わり、妻のアンナ・コルビョルンスダッテルが大活躍することになります。イェヴナーケルでの略奪の一報は既に彼女の耳に入っていたため、彼女は直ちにリーエルのノルウェー軍の下に二人の伝令を遣わせました。同時に、スウェーデン兵を足止めするだけでなく、スウェーデン軍によるノーデルホーヴでの略奪や放火を避けるために、彼女は長い進軍で疲れ切っていたスウェーデン兵に牧師館を解放し、野営に必要な敷地を提供したほか、食事や酒も振る舞いました。

博物館/旧牧師館内部 壁に銃弾の跡が残る. 
写真: Takeshi Okamoto.博物館/旧牧師館内部 壁に銃弾の跡が残る. 写真: Takeshi Okamoto
 

それから約30時間後、彼女が遣わした伝令と共に、コース (Kaas) とエトケン (Øtken) に率いられたノルウェー兵400人が午前4時頃にノーデルホーヴに到着し、疲れや酒に酔って熟睡していたスウェーデン軍に奇襲攻撃を仕掛けました。この戦いでは、スウェーデン側の死者が30~250人を数えたのに対し、ノルウェー側の死者はたった2名でした。スウェーデン兵120~170人が捕虜となった他、近郊のヴィーケシュン (Vikersund) 地区でもスウェーデン兵25~75人が捕虜にされたと記録されています。この戦闘での銃弾痕などが現在も博物館の壁に残っています。因みに、スウェーデン軍を率いていたレーヴェンは、最終的にクリスチャンサンのフレッケレイ (Flekkerøy) 要塞に1719年まで収監されました。

これをきっかけに、スウェーデン軍を取り囲む情勢が悪化し、6月27から7月8日にかけての「ディーネヒーレン (Dynekilen) の戦い」でトルデンショル (Tordenskjold) によってスウェーデン海軍が撃破され、糧道が断たれたため、カールXII世はノルウェーからの撤退を強いられることになりました。

1718年、スウェーデン国王カールXII世は再びノルウェーに攻撃を仕掛けますが、フレデリクスハルのフレデリクステン (Frederiksten) 要塞での攻防中に、銃弾を頭に受けて死亡しました。この時の国王のヘルメットはストックホルムの歴史博物館に保管されています。長年にわたる戦争による負担にうんざりしたスウェーデン兵が国王を背後から撃ったと推測されています。カールXII世の死亡により、スウェーデン軍は直ちに撤退することになりましたが、猛吹雪の中の退却は苦難を極めて多大の損害を出すことになったため「キャロリアン死の行進 (karolinernas dödsmarsch)」と呼ばれています。

アンナ・コルビョルンスダッテルの功績を記念して、博物館前には立派な記念碑が建立されています。ノルウェーでは非常に珍しいことですが、彼女と夫のヨーナス・ラスムスは死後ミイラにされ、現在も博物館の前にあるノーデルホーヴ教会の地下室に安置されています。(数年前に調査が行われました)。

アンナ・コルビョルンダッテルの記念碑. 
写真: Takeshi Okamoto.アンナ・コルビョルンダッテルの記念碑. 写真: Takeshi Okamoto
 

(続く)


 


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