2014年 <ノルウェー憲法制定200周年>

最終更新日: 13.05.2016 // 1814年5月17日に制定されたノルウェー憲法は、民主主義の発展の礎を築くとともに、ノルウェーに独立国家の地位を与えるうえでも重要な役割を果たしてきました。2014年にノルウェー憲法は制定200周年を迎えました。

 

 

ノルウェー憲法は1814年の制定以来、400回以上にわたって修正されてきましたが、それでもなお同一の憲法であると見なされています。そのためノルウェー憲法は現行の憲法として欧州で最も古く、また世界でも二番目に古い成文憲法とされています。

ノルウェー憲法には3つの柱があります。三権分立、市民の権利の保護、そして国民主権です。

1814年5月17日制定のノルウェー憲法は、ノルウェーの歴史において特別な地位を占めています。民主主義の発展の礎を築いただけではなく、ノルウェーに独立国家の地位を与えるうえでも重要な役割を果たしてきたからです。

400年に及ぶデンマークの支配を経た後にノルウェー憲法が早急に制定されたことは、民主主義を掲げてというよりもむしろ、国家に自由をもたらすための戦略的な動きであったと見なされるべきです。とはいえ制憲会議のために選ばれた112人の「アイツヴォルの男たち」は、当時としては世界で最もリベラルな憲法の1つを作り上げています。

多くの諸国が劇的革命と社会変革を経験し、北米や欧州では1776年から1814年にかけて多数の画期的憲法が草稿されました。ノルウェー憲法はこの期間に制定された画期的な憲法の最後を飾るものとなりましたが、平和な状況下で制定されています。ただしこの憲法は無から生み出されたわけではなく、他国の憲法制定の経験に基づいて作成されたものです。米国の独立宣言やフランス憲法の影響を受け、ノルウェー憲法は3つの方針、すなわち三権分立、市民の権利の保護、議会制度に基づいて制定されています。

ノルウェー憲法の最初の草案はヨハン・グンダー・アドラー(Johan Gunder AdlerChristian)とクリスチャン・マグヌス・ファルセン(Magnus Falsen)が作成し、次の文章で始まっていました:
「人は生まれながらにして自由であり平等である。人には、一定の重要かつ普遍の権利が備わっている。その権利とは自由、安全、財産に関する権利である」

ノルウェー憲法は、ノルウェーの民主主義の発展に決定的な役割を果たしてきました。第二次世界大戦時には例外的に民主主義制度が一時的に停止されたとはいえ、ノルウェーは一度たりとも民主主義の発展の歩みを止めたことはありません。

ノルウェー憲法が制定200周年を迎えた2014年、ノルウェー憲法の現在の意義、そして今後の民主主義に果たす役割への関心への高まりを期待してノルウェー国内全体で200周年を祝いました。各市町村と地域で、5月17日の憲法記念日にとどまらず、年間を通して様々な祝祭行事が行われました。ここでは子どもと若者が主役に据え、彼らの参加と関心を高める取り組みが重視されました。

 

 


1814年の主な出来事】

 

1814年1月に締結されたキール条約によって、ノルウェーはスウェーデンとの連合に向かうことになりました。しかしこの年の5月17日に「アイツヴォルの男たち」がノルウェー憲法を制定、同年後半に短い戦争を経てモス条約が締結され、スウェーデンはノルウェーが独自の憲法を持つことを認めました。こうしてノルウェーの憲法は守られたのです。

1月14日 – キール条約
1813年の晩秋、スウェーデンの皇太子カール・ヨハンがデンマークに侵攻、優勢な軍事力を背景に、ノルウェーをスウェーデンに割譲するようデンマークに迫りました。12月15日には停戦に至り、キールで平和条約締結に向けた交渉が開始されました。戦争の再発を恐れたデンマークの交渉者たちはスウェーデンの要求に譲歩し、1814年の1月14日にキール条約が締結されました。その結果デンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲、デンマークとノルウェーの434年にわたる連合関係は終焉を迎えたのです。

2月16日 – ノルウェーの優れた男たちによるアイツヴォルの会合
ノルウェー国内では、副摂政として同国に派遣されていたデンマークの王位継承者クリスチャン・フレデリック王子のリーダーシップのもと、このキール条約に対する異論が唱えられました。2月16日にクリスチャン・フレデリック王子は21人の優れたノルウェー市民をアイツヴォルに召集、彼らの前でキール条約を否定し、デンマーク・ノルウェー王国の王位継承者として王位に就くことを宣言。ところが召集された者の多くはこの案に反対し、デンマーク国王がノルウェーに対する権限を放棄した以上、ノルウェーの主権はノルウェー国民に属すると主張しました。フレデリックはこの多数派の意見に屈し、その結果、市民の選出した代表者による会議を招集し、憲法を制定したうえで国王を選出することになりました。

2月25日 –祈りと選挙
2月19日にクリスチャン・フレデリックは、「4月10日にアイツヴォルで会議を行い、ノルウェー憲法を制定する」旨の公開書簡を出しました。これを受けてノルウェー全土の教会で2月25日、もしくはその後の出来るだけ早い時期に特別な礼拝が催され、それに続いて行われた会合において出席者は宣誓のうえで選挙人を選出しました。更に、任命された選挙人が集まってアイツヴォルでの制憲会議に派遣する代表者を選出しました。ところが「代表者を選出すべし」との指示がノルウェー北端の地域に届くのが期限に間に合わず、1814年にアイツヴォルで開催された会議にはノルウェー北部からの代表者は一人も出席できませんでした。フィンマルク県においても代表者の選出は行われましたが、それは「アイツヴォルの男たち」がその任務を終えた後のことでした。

4月10日 – 112名 の代表者がアイツヴォルに集結
4月10日に 112 名の代表者が、各地の選挙人の任を受けてアイツヴォルに集まりました。57人は政府関係者、18人は業界人、37人は農民でした。彼らはまずアイツヴォルの教会の礼拝に出席し、それからクリスチャン・フレデリックに委任状を渡しました。翌4月11日にアイツヴォルのマナーハウスの主講堂に集まり、制憲会議の開会を正式に宣言しました。そしてクリスチャン・フレデリックが国王の役割を担って開会挨拶の演説を行い、会議出席者の任務はノルウェー憲法を制定することだという点を強調しました。

5月17 日 –会議出席者が憲法を制定、クリスチャン・フレデリックを王に選出
「アイツヴォルの男たち」は、6週間をかけて憲法制定に取り組みました。そして112人の代表者全てが国民主権、自由、力の均衡という考えに基づく憲法にすべきだという点で合意しました。ですがノルウェーの自由を最大限に確保するために、どの外交オプションを選択すべきかについては意見が分かれました。完全な独立やデンマークとの再連合を望む者もいれば、スウェーデンとの連合のもとでの独立を求めるべきだとする者もいたのです。この意見の相違は憲法の制定や国王の選出に影響を及ぼすものでしたが、完全な独立を望む者が圧倒的多数を占めたため、完全な独立の案が選ばれる結果となりました。


5月17日に憲法制定が終了し、議員による署名が行われました。クリスチャン・フレデリックは満場一致でノルウェー国王に選出されましたが、連合を支持する14人の出席者は、強制されてフレデリックに投票したことを議事録に記録するよう求めました。しかしながら112名の代表者がアイツヴォルを去る頃には、彼らの意見の相違は合意の精神に取って替わられ、「ドヴレ山脈が崩れ落ちる日まで団結し、誠意を尽くす」とのスローガンが掲げられました。

5月19日 –クリスチャン・フレデリックが即位
憲法制定の翌日に当たる5月18 日に、クリスチャン・フレデリックはイングランド、ロシア、オーストリアがノルウェーに監督官を派遣し、スウェーデン・ノルウェー連合を押し付けようとしていることを知りました。ノルウェーの独立は列強国がこれに反対している以上、現実的ではなく、クリスチャン・フレデリックが即位を辞退すれば紛争を避けられたであろうにもかかわらず、フレデリックは5月19日に開かれた儀式において、アイツヴォルの男たちの提案に従って即位しました。

8月14 日– モス条約によって、ノルウェーとスウェーデンの戦争が終結
1814年の春の間、スウェーデンの王太子カール・ヨハンとその軍隊はナポレオンとの戦争が長引き、大陸から目を離すことができませんでした。そしてこのフランスの皇帝が敗北してようやく、カール・ヨハンはその関心をノルウェーに向け、列強国の支持を得てキール条約の条項に従うようノルウェーに求めたのです。7月26日にカール・ヨハンはフレデリックとノルウェーに対し、宣戦を布告しました。スウェーデンの陸軍は速やかに進攻し、ノルウェーは撤退を余儀なくされました。しかし8月7日には停戦交渉が開始され、ノルウェーはその憲法を認めることをスウェーデンに対して要求しました。この交渉は8月14日のモス条約締結で終結し、カール・ヨハンはスウェーデンとの連合に必要な修正を行うことを前提にノルウェー憲法を容認し、クリスチャン・フレデリックは退位を約しました。こうしてノルウェー憲法は守られました。

10月7 日 – 初の臨時国会
モス条約の条項に従ってクリスチャン・フレデリックは選挙を実施し、臨時国会を召集しました。その結果、10月7日に聖堂学校内の大講堂で国会(ストーティング)が召集され、79名の代表者が出席してノルウェー初の臨時国会が正式に宣言されました。ですが時間不足と遠距離ゆえに、今回もノルウェー北部の代表者は誰も出席できませんでした。この国会は、アイツヴォルで制定された憲法をスウェーデンとの連合に合わせて修正するために召集されたことから事実上の憲法制定会議であり、従って憲法の原典に規定の憲法修正手順は守られなかったことになります。10月9日にクリスチャン・フレデリックは25人の代表者のグループを前に演説し、ノルウェー国王を退位しました。これにより、選出されたばかりの国会議長ウィルヘルム・クリスティの率いる国会が、憲法修正及びスウェーデンとの交渉について、唯一の責任を有する組織となったのです。

11月4日 – 国会が修正憲法を採択
1814年11月4日に、新憲法が制定されました。公式にはこの憲法はアイツヴォル憲法の修正版ではなく、11月4日付けの新憲法とされています。旧憲法との根本的な違いは、ノルウェーが独立の王国としてスウェーデンとの連合に入ることでした。国王、内閣、及び国会に関する条項の多くも修正されましたが、実はこうした修正によって国会や内閣の国王に対する立場は強化されています。特にアイツヴォルの憲法と比べ、新憲法では国王の軍事、外交面の権限が弱まっています。こうして憲法修正は11月4日に完了し、国会はクリスチャン・フレデリックの退位を受け入れると宣言しました。そして同日に新たな国王、1814年の2番目の国王が国会によって選出されました。スウェーデンのカール13世が、キール条約ではなくノルウェー国会の投票に基づいて、ノルウェーの新国王に選ばれたのです。

 

Source: Stortinget



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