Fridtjof Nansen. 
写真: Nasjonalbiblioteket.Fridtjof Nansen. 写真: Nasjonalbiblioteket

フリチョフ・ナンセン(1861-1930)

Fridtjof Nansen

 

Fridtjof Nansen Photo . 
写真: Norwegian Polar Institute.Fridtjof Nansen Photo . 写真: Norwegian Polar Institute


極地探検家、科学者、外交官、国際的な人道活動家、名士

フリチョフ・ナンセンは、クリスチャニア(現オスロ)郊外で生まれました。田舎の環境で育ったナンセンは、若い頃からアウトドアの生活に熱中し、身近にある大自然の原野によく出かけていました。自然に魅了されたナンセンは、大学で動物学を学ぶことを選びました。

 

若き科学者
大学卒業後はベルゲン博物館の学芸員として働き、下等脊椎動物の神経系の構造調査に多くの時間を費やしました。そうした研究の集大成として執筆したのがメクラウナギの中枢神経系に関する学位論文です。1888年4月28日に博士論文審査に合格し、その4日後にはオスロを発ち、グリーンランド横断の旅に向かいました。

 

スキーでグリーンランドを横断
これは、グリーンランドの氷床の上を他の探検家たちが過去に挑戦してきたのとは逆方向に、すなわち東海岸から西海岸に向けてスキーで横断するという計画です。ナンセンはそれ以前にもグリーンランドの東海岸に行ったことがありました。学生であった1882年にアザラシ猟船バイキング号で航海し、それ以来、ナンセンは極地のあらゆるものに対する興味をつのらせていました。

グリーンランド横断を思いついたのは1883年のことでした。グリーンランド探検旅行は大成功を収め、ノルウェーにとっては北極圏の国としての飛躍の足がかりとなり、ナンセン自身もノルウェー国内外で有名になりました。

ナンセンはこの探検旅行で多くの経験と知識を得ました。特に大きな影響を及ぼしたのは、1888年秋から1889年春にかけてグリーンランド西海岸でイヌイットと共に越冬せざるを得なかったことです。この期間にイヌイットの生活や文化を学び、それを通して知識は、その後ナンセンにとっても、極地研究全体にとっても有益なものとなりました。

 

The Greenland Expedition, . 
写真:  Norwegian Polar Institute.The Greenland Expedition, . 写真: Norwegian Polar Institute

フラム号での探検
ナンセンは明確な科学的目標を持って探検旅行に臨んでいました。ナンセンによるグリーランド探検以前には、グリーンランドの内陸地帯は氷で覆われていないものだと多くの人が考えていました。ナンセンは、グリーンランドが厚い氷床で覆われていることを証明したのです。

フラム号での探検では、北極海の海流が船を北方に運び、場合によっては北極まで到達できるかもしれないことを実証するのが目的でした。この探検旅行では、ナンセンがヒャルマー・ヨハンセンと共に船から離れさらに北に踏み入り、前人未踏の北緯86度4分まで到達したものの、北極点に到達することはできませんでした。

それでもナンセンは北極海の海流に関する自身の理論を証明することに成功し、フラム号の探検旅行によって、北極は大きな大陸上にあるという多くの人が抱いていた推論が実質的に一掃されたのです。フラム号の探検旅行で得られた科学的成果は1900年から1906年にかけて6巻の報告書として発表されました。

 

外交官
1905年にスウェーデンとノルウェーの連合が解消される数年前から、ナンセンはこの連合の政治的・社会的側面に関心を抱いていました。外交への関与を徐々に深めていき、この連合においてノルウェーとスウェーデンは同等の国家として扱われるべきであると主張しました。ノルウェーは、必要があれば連合から分離する準備をしておくべきであるとも述べました。

1905年の連合解消に際し、ナンセンはクリスティアン・ミケルセン首相により特使としてロンドンに派遣され、ノルウェー側の主張を伝えました。このとき、ナンセンの国際的な名声がノルウェーにとって有益に働きました。

ロンドン滞在後、ナンセンはデンマークのカール王子にノルウェー国王への即位を説得するべくコペンハーゲンに派遣されました。ここからノルウェー王室とフリチョフ・ナンセンとの緊密なつながりが始まりました。

ナンセンは1906年から1908年まで初代の駐英国ノルウェー大使を務めました。大使在任中の最も重要な外交課題は、ノルウェーの独立を脅かしうるあらゆることに対してノルウェーを支援することをヨーロッパ主要国が約束した1907年の保全条約のための交渉でした。

 

科学者
「フリチョフ・ナンセンは偉大な極地探検家であったが、それ以上に偉大な科学者であった」と、ハラルド・スヴェルドラップは述べています。スヴェルドラップによれば、ナンセンは海洋学と動物学をはじめとする自然科学の分野ばかりでなく、歴史学、民族誌学、政治学といったその他の分野でもめざましい功績を挙げていました。

フラム号での探検旅行の後、ナンセンは王立フレデリック大学(後のオスロ大学)で動物学の教授に就任しましたが、それまで以上に海洋学の研究に多くの時間を費やすようになり、1908年には同大学で海洋学の教授に転籍しました。

ナンセンによる最も重要な科学的研究は海洋学者としてのものであり、ナンセンは現代深海研究の父と呼ばれています。海洋学教授に就任して間もない1909年にはビョルン・ヘランド・ハンセンと共に「The Norwegian Sea」を発表し、この著書は海洋研究の参考書となりました。海洋学の原理に関する研究に没頭している時期にあっても、ナンセンは時間を見つけて、1500年代までの北極地方への旅行や探検の歴史を記述した傑作「In Northern Mists」を発表しています。

 

人道活動家
ロシア当局の招きを受け、ナンセンは1913年に長期にわたってシベリアを廻り、そのときの模様を著書「Through Siberia」(1914年)に記しています。第一次世界大戦の直後から、ナンセンはロシア(1923年からソビエト連邦)における悲惨な状況の改善に深く携わるようになりました。

1920年から亡くなるまで、ナンセンは国際連盟のノルウェー代表団の一員でした。1920年には国際連盟からの申し入れで多数の戦争捕虜の帰還の組織的な実施を要請され、すぐさまこの任務を引き受けました。1922年までに26カ国約45万人の戦争捕虜の交換帰国が行われました。この仕事と並行して、その他の人道的活動にもいっそう強く取り組んでいきました。新たに樹立されたソ連では飢饉が大きな被害をもたらし、数十万人が難民化していました。

歴史学者カール・エミール・フォークトは、ナンセンがソ連で起こした救済活動を通じて支援を受けたソ連国民は約100万人に上ると推定しています。ナンセンは、難民、とりわけギリシャ、トルコ、アルメニアの難民への援助でも大変な尽力をしました。1922年、ナンセンはそうした人道的活動に対してノーベル平和賞を受賞しました。

その幅広い功績を通じて、ナンセンはノルウェーはもとより他の多くの国々に消えることのない印象を残しました。ナンセンの名は、ノルウェーの歴史に深く刻み込まれています。

フリチョフ・ナンセンは1930年5月13日に亡くなり、その生涯を象徴するかのように、ノルウェーの憲法記念日である5月17日に埋葬されました。


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